わが国の水銀鉱と密教文化

 ”青丹よし奈良の都は咲く花の…”と詠われているように、古代の貴族社会は現代よりももっと極彩色で華やかな世界であったのだろうか。当時の神社仏閣や貴族の邸宅の青瓦や朱柱の色彩を可能にしたものの一つが朱色の天然顔料であり、わが国では古来「朱」又は「丹」と呼ばれた。朱(丹)の鉱物名は、辰砂(シンシャ, cinnaber)といい、硫化水銀(HgS)で、朱色の顔料として、また金属水銀の原鉱石として古来から重宝された。辰砂は、熱水鉱床中に産出することが多く、わが国では地質学的に東北日本と西南日本とを二分するフォッサマグナ(西縁:糸魚川-静岡線)から西へ東西に延びる所謂、中央構造線に沿って帯状の地域に産出することが多い。辰砂が産出する場所は、朱色の鉱石が産出する場所という意味で、丹生(にう、にゅう)又はそれに因んだ名前が今でも残っているところが、福井県、三重県、和歌山県、奈良県、徳島県、愛媛県等の各地に存在する。

 辰砂(HgS)は、鉱物としては、六方晶系に属し菱面体結晶を呈するが、鉱床での産状は朱色(又は黒色)の土塊状であり、条痕色は鮮紅色になる(粉化にしても黒化したりせず塊そのままの色が残る)ため、これを粉砕、精製して朱色顔料とする。ニカワ等で溶いて塗料とするほか、陶磁器の釉薬として朱色を出すためにも用いられる。この朱色は、酸化炎下で酸化鉄が発色する赤~褐色とは明らかに異なる深みのある深赤(朱)であり、北浜の東洋陶磁美術館などへ行くとその違いが確認できる。

 また辰砂は、還元して金属水銀とし金アマルガムの材料として使用する方法が当時すでに知られていた。即ち、金と水銀のアマルガムを造り銅に塗布し銅の表面に金を渡金する方法である。東大寺の大仏の創建時(752年)には、5万両余(現在の約800Kg)の水銀が奉納されたことが記録されている。

 辰砂からの水銀精錬法は古代から進んでおり、辰砂を400~600℃程度で加熱する方法がとられた。加熱により辰砂は、水銀蒸気と硫化水素に分解するが、この水銀蒸気を冷やして金属水銀を回収する方法である。後に述べる丹生大師付近は、水銀鉱山の中心地でありその遺跡(鉱山跡地や炉の遺物等)が今も残されている。一方では経済繁栄の陰に、”ホムツワケ”が徘徊し、恐ろしい水銀中毒に苦しめられていた鉱山労働者の記録も残されている。

 上記の理由で、当時水銀鉱(辰砂)は貴重な鉱物資源であり、一部の特権階級(豪族)に寡占され、各寺院や中央政府は水銀を備蓄していたと思われる。この鉱山を支配した豪族が丹生一族であり、丹生都比売(ニウツヒメ)を奉り、和歌山県-三重県周辺の丹生鉱山を支配していた。空海(弘法大師)は高野山に入峰(弘仁7年:816年)に際して、嵯峨天皇から高野山を賜ったとする説と丹生都比売から譲り受けたとする説の2説があるが、丹生都比売神社の狩場明神が、弘法大師を高野山へ道案内をしたとの伝承もある。

 奈良県には、高野山山麓-奥吉野周辺に、丹生都比売神社、丹生川上神社(上社、中社、下社)、丹生官省符神社等多くの丹生都比売を祀る神社が点在する。また、三重県勢和の神宮寺(丹生大師)は有名で、空海(弘法大師)が伽藍を整え丹生都比売を奉ったとの言い伝えがあり、空海と丹生との関係は深かったと思われる。その後、丹生氏は鉱山の衰退とともに次第に影響力を失っていったが、高野山真言宗派の勢力拡大とともに逆に高野山が丹生氏と各地の丹生神社(丹生関連神社は全国に180社といわれる。)を存続させたとみることもできる。

 時代は下って南北朝時代には、吉野を根拠地とする南朝方の楠木正成は、河内の千早赤坂に本拠を築いていたが、千早は中央構造線上にある水銀の産地である。楠木一族は、その採掘権をにぎり、それを奈良や京都へ売りさばいていたのではないかと推測する歴史学者もいる。水銀の採掘が、時には軍資金となり南朝の勢力を支えていた。

 このように、縄文・弥生時代から水銀(辰砂)は、摩訶不思議な鉱物として、わが国の歴史の一部を動かしてきた。辰砂を産出する中央構造線が日本史の一役を荷なっていた時代があったのである。

(大阪技術振興協会誌No.432(2012.12)掲載)