タヤン奮戦記

-西カリマンタンボーキサイト鉱床調査の思い出- 

 1980年4月のある日、私はチームを組んだ商社のジオロジスト(地質屋)とともに成田空港からジャカルタ行きJAL便に乗り込んだ。インドネシアのボーキサイト鉱床の探鉱・調査のためである。当時、オイルショック後ではあったが、わが国のアルミニウム工業はそれまでに急成長を遂げ、アルミニウム精錬工場の新設・増設の余韻がまだ残っている時代であった。アルミニウムの原料鉱石であるボーキサイトの確保が重要課題であり、日本のアルミ精錬業界は新規の産出地を求めていた。業界の共同案件として、インドネシア政府から合弁による共同開発の提案を受けた「インドネシア西カリマンタン・ボーキサイト・アルミナ開発計画」に参画するかどうかの事前調査がその目的であった。

 その1週間ほど前、家内と桜が見ごろを向えていた万博記念公園の日本庭園を散策した。ひょっとして、これが見納めになるかもしれないとひそかに思った。これからボルネオ島のジャングルに分け入らねばならない。日本人で現地へ入った人は未だいなかった。出発前、担当常務から「身体に気をつけて頑張ってこい。」と励まされ、工場の産業医からマラリア予防のため週に1回は薬の服用を勧められた。下痢止めや抗生物質などチョッとした薬屋ができるくらいの薬を旅行ケースに詰め込んでいた。商売道具のクリノメーターや地質調査用トンカチなどはもとより、ライフジャケットや寝袋まで準備した。

 ジャカルタ行き直行便の機内では、終始同行の相棒と機内サービスのビールやワインを飲んで不安を紛らわした。JAL機が着陸態勢に入ると、ビロウ樹のような緑の間に転々と赤瓦屋根の市街がみえた。いよいよジャカルタだ。

 ジャカルタは、春分を少し過ぎた頃で太陽は真上にあり兎に角暑かった。ここで、約1週間足止めを食った。当時、西カリマンタン(ボルネオ島インドネシア領)は、政情が不安定で少し前に軍の一部が暴動を起こしたとかで、なかなか入山の許可が下りなかったためである。

 やっと申請書類が受理されて、ジャカルタで合流したもう1人の日本商社ジオロジストとインドネシア側から国営アネカタンバンのジオロジストと役人5名の合計8名で国営ガルーダ航空の小型ジェット機に乗り込み、ジャカルタから北北東に約700kmのポンティアナクに向った。キーンと鋭い音をたて、あまり速度を落とさず急角度で離着陸をするまさに野蛮な飛行機だ。ドアがビリビリとびりつき今にもドアが吹っ飛びそうで不安を一層つのった。

 ポンティアナク(Pontianak)は西カリマンタンの州都で、南緯0度00分の緯度にあり赤道直下の街である。近くに赤道直下を示す子午儀をかたどったモニュメントがある。カプアス(Kapuas)河の河口にひろがり華僑の多い街である。木材、天然ゴム等の集積地として活気があった。

 われわれの目的地は、ポンティアナクからカプアス河上流のタヤン(Tayan)村の周辺に広がるボーキサイト鉱床である。あたり一帯は熱帯ジャングル地帯であり、唯一のルートはカプアス河を船で遡る方法である。われわれは、ポンティアナクの船着場で2艇のモーターボートを船長付で借り分乗した。河口付近の河幅は兎に角ひろい。対岸がかすんで見える。水は不透明な黄褐色である。2艇のモータボートは猛スピードで河上に向かって疾走した。ところどころに微かに頭を出して流れてくる流木が見える。船長は「これに衝突したら木っ端微塵だ。」とさも得意げにこれをかわした。上流から筏に組んだ大きな木材を曳いた船と何度かすれ違った。その度に大波を受け船外に放り出されそうになる。エンジンの振動も激しい。しかし、もうこの辺にくると、あとはどうにでもなれという心境で妙に気分が落ち着いた。ただ、見慣れぬ両岸の景色は美しかった。約3時間後、やっとの思いでタヤンに着いた。

 タヤンはポンテアィナクからカプアス河沿いに約170km上流(直線距離:約80km)の村で、河沿いに2、30軒の民家が点在する。木組みの家屋は高床式で、家の周りにバナナやパパイヤを植え、ウコッケイのような鶏を数羽飼っているような民家が多い。ここでは果樹も家畜も痩せている。

 アネカタンバンの役人は、タヤンで唯一の公民館を借りることで話をつけた。われわれは約40日間、ここで寝泊りしながらボーキサイト鉱床の調査を続けたのである。

 小さな公民館の部屋には、鉄パイプむき出しのフレームにマットを敷いた簡易ベッドと裸電球がぶら下がっていた。夜は天井や裸電球のコードにヤモリが這い、時々キイキイと鳴いて2、3匹が絡まって布団の上に落ちてきた。ここまでくると、最早ちょっとやそっとのことでは驚かなくなるものである。夜8時過ぎに発電機が止まると、あたりは真っ暗闇の静寂につつまれる。星ぼしが手に取るように見えた。

 われわれが調査対象としたボーキサイト鉱床は、この集落の対岸の内陸部に位置していた。河幅はかなり上流であるこの辺でも2km程度はあり、焼玉エンジンの付いた渡し舟を毎日チャーターして往復した。朝キャンプを出発し夕方もどってくる。食事係りのお手伝やピット掘削やサンプルの運び出しのため村の住人を数人雇った。対岸に船着場は無く、岸と船とに一枚の板を渡してその上を渡るのに毎日2回、行き帰りに神経を使った。特に雨の日は板がぬるぬる状態で、河水はとうとうと流れ黄土色、落ちればどの程度の深さか皆目見当がつかなかった。河には魚や手長エビがいるようだが、白っぽく透明感がありほとんど色素がない。

 対岸に着くと、ここからジャングルの中を兎に角歩く。ボーキサイト鉱床は、なだらかな丘を3つか4つ越えたところにある。熱帯ジャングルの中に入ると地形がわかりにくい。丘を下って谷になるところは決まってクリークやスォンプがある。薄口醤油のような褐色で透明な水を湛えたクリークをじゃぶじゃぶ渡った。靴の中が生ぬるい。蛭がいないかと細心の注意をしながら…。このクリークも雨季には辺り一面、大きな湖のようになる。

タヤンの丘(ボーキサイト鉱床)

タヤンの丘(ボーキサイト鉱床)

 ジャングルの中は、湿度100%である。兎に角蒸し暑い。汗が噴出して滝のように流れる。タオルは、しぼっても絞ってもすぐびしょびしょになる。ズボンの革のベルトは、汗でふやけて10日もすると切れかけた。時々スコールが熱帯樹林の上をかすめる。10分ほどするとサットあがるが、一時涼しくなるものの返って蒸し暑さが増してくる。

 サイトへ到着すると作業を開始する。探査では地図上で予定したグリッド(格子)をもとに位置と方向を決め、この線に沿って直線状に潅木を伐採する。間縄で2地点の距離を測り、トランジットで角度を計測して記録していく。これを連続して続けると地形の起伏を測定できる。またグリッドのセンターで、ハンドオーガーによるドリリングやピット掘削を行う。ピットは、間口80cm×120cm、深さ10m程度であり現地で雇用した住人が見事にやってくれた。タヤンのボーキサイトは、土状でありピット掘削が比較的容易であった。ピットに竹で作った梯子をかけ、ボーキサイト鉱石の産状を観察・記録し深さ方向のサンプリングを行ったりした。この作業は結構スリルがある。10mの深さの穴底から上を見上げると、今にも崩れて生き埋めになるのではないかとの恐怖が襲う。ピットによっては、湧水により途中で掘削を断念したものもあった。(掘削された総計34本にのぼるピットは、帰国時に埋め戻したことは言うまでもない。)

ジャングルの中

ジャングルの中

 ジャングルの中で注意すべきは、毒虫と毒蛇と寄生虫である。特に蚊には刺されないように注意した。それでも、いくら気をつけていても食われた。タヤンに入ってからマラリヤの予防薬は欠かさず飲んでいた。入村後、村で生後数ヶ月の子供がマラリアで死んだという話も聞いた。当時、この辺では子供の死亡率がかなり高かったように思う。

華僑の商店で

華僑の商店で

対岸へのチャーターした渡船

対岸へのチャーターした渡船

 また、蟻には悩まされた。この地の蟻は、飴色をし大きな頭と頑丈なあごをもつ蟻で、かまれるとヒリヒリして痛い。すごく攻撃的で、ライターの炎を見せると焼身自殺をものともせず、炎に向って攻撃を仕掛けてくる。昼食は弁当を作ってもらって持参していたが、ある時、弁当を地面に置いていたため、食べようとしたときには真っ黒になるほど蟻にやられて、その日は腹をすかせて帰ったことを覚えている。それ以来、弁当は木の枝に紐でつるすようにした。それでも、紐をつたって蟻は侵入してきた。弁当は、段重ねの琺瑯引きの容器で、パサパサのご飯とシャブシャブする鶏がらスープが入っており、傾けるとこぼれるので苦労して持ち歩いたように記憶している。

渡船の中で

渡船の中で

 毒蛇といえばこんなことがあった。ある時、先を歩いていた現地住人がハタと立ち止まり一歩も先へ進まない。大きく迂回した。理由を聞くと数m先にグリーンスネークがいるという。よく見ると数10cmぐらいの緑色の蛇が潅木の枝に這っていた。ほとんど葉っぱと見分けがつかない。これに噛まれたら命はないと大変な恐れようだった。しかし、ジャングルの中でも現地人は裸足が多い。目が良いのには感心する。

 クリークを渡るときは、馬蛭に気をつけた。寄生虫は何が居るかよくわからないので対応のし様がない。兎に角、生水は飲まないように注意した。現地の人はカプアス河の水を使って平気である。河沿いの民家は、上流で洗濯やトイレをし、数10m下流の民家では、食事の水を汲む。汚いようだが何しろ河の水量が途轍もなく多いので思ったほど汚い感じはしない。しかし、一度煮沸した水しか飲まないようにするのが鉄則である。われわれの公民館には、雨水をためるドラム缶があった。鉄木とかいう硬い木をスレート状に裂いてこれで屋根をふいて雨水を集めてドラム缶にため、これを煮沸して使用した。どんより白濁した水であまりいい気持ちではないがこれしかないので、ここでも覚悟をきめる。仕事から帰ってくるとマンデーと称して、河の水を汲んできて水浴をするのが日課であった。汗をかいた体には、濁った河の水でも爽快であった。

試堀現場

試堀現場

 河の対岸との中間に中州があり、どういう訳か華僑の商店街があって雑貨や食料品を売る店があった。夕食後、サンパンと称する舟に乗って中洲に渡りブラついた。甘ったるい中国酒やインドネシアのビールを飲んだ。何とかガラムというタバコは、吸っているとパチパチと音をたてた。”こんなところに…”と思う粗末な木造の映画館もあって、たわいもないシンガポール映画やインドネシア映画をやっていたように思う。

 他愛も無いことを書き綴ってきてお叱りを受けそうなので、この辺で多少“学術的?”なことにも触れてみたい。ボルネオ島はスマトラ島とともに旧スンダ大陸の一部として、Lower Tertiary以来、比較的地質変動の少なかったところである。その後、長期間にわたる準平原化作用を受け、Post-Pleistoceneごろに部分的な海進を受けた。ビンタン島をはじめとするリオウ群島の起源もこの頃に端を発すると思われる。この準平原化作用によりカプアス河の両岸に広がる幅広い沖積層と広大な海岸平野や湿地帯を作り出した。インドネシアのボーキサイトは、バレートン著「BAUXITE」では、堆積性タイプとして分類され、ビンタン、タヤンボーキサイトともその範疇である。ただ、その後の花崗岩化作用で生成され、高品位ボーキサイトの母体になったといわれるhornfelsの生成が、ビンタンに比べタヤンの方が少なかったと想像される。そのためかビンタンに比べてタヤンはどちらかというと低品位鉱である。タヤンの柱状図は図-1の例示のようなものである。即ち、地表から30cm程度の黒褐色の表土の下に2~4m程度の黄褐色の粘土層があり、更にその下部に赤褐色から暗赤色で2mmから50cm程度のノジュールを含んだ2~6m程度のボーキサイト層が存在する。その下部は再びクレー層に移行し母岩へと続く。基盤岩およびボーキサイトの母体となった母岩は、granite(花崗岩)またはgranodiorite(花崗閃緑岩)と考えられる。

 タヤンボーキサイト鉱床の特徴は、①上部粘土層が厚いこと、②構成粒子が細かい土壌状であり塊状のものは少ないこと、③ボーキサイトに粘土分と石英粒がかなり混在していること、④アルミナ含有品位は高くないがビンタン島などと比較すると埋蔵量が多いこと、⑤アルミナ分はギプサイトタイプでベーマイトは殆ど存在しないこと、などである。アルミナ製造バイヤー工程では、粘土分は苛性ソーダの原単位を悪くするため、タヤンボーキサイトはクレイ分を除去する工程が必要である反面、溶けにくいベーマイトが無いことが有利な点である。合計3,600kg程度のサンプルを採取し日本へ送付した。帰国後、蛍光X線分析やX線回折等による分析を行い、現地で測定したバルク密度から次のような調査結果を報告した。

[地山鉱石] [精鉱鉱石]
平均品位: Al2O3 30.4% 39.8%
SiO2 7.6% 2.9%
推定埋蔵量: 2億7千万トン 1億6千万トン

(精鉱収率:60%)

 帰る頃には、アネカタンバンのジオロジストや役人と旧来の知己のようになっていた。

 ジャカルタでは、わが社のジャカルタ事務所で歓迎を受けた。出されたおにぎりが特においしかったことを覚えている。横井さんや小野田少尉の気分に少し似ていたかもしれない。ジャカルタからの帰路は、ビンタン島に立ち寄りビンタンボーキサイト鉱床とその採掘現場を見学しシンガポール経由で帰国した。地理的にはビンタン島はシンガポールに近く、雨の中をフェリーでシンガポールに上陸した。シンガポールのホテルについたとき、やっと終わったという実感がわいてきた。ホテルの私室でジャックダニエルを傾けた。中庭にプルメリアの花の香りがただよっていた。

 ジャックダニエルを飲むと何時も当時のことを鮮やかに思い出す。取りとめのない不安と期待、それと熱帯のムンムンするような花の香り…。私は、今でもウイスキーはジャックダニエルと決めている。

(愛媛県技術士会会報Vol.12(2004)掲載)