ソロモン海の夜明け

(南太平洋・オーストラリアボーキサイト調査回顧録)

 私は会社を退職し、現在はISO14001環境審査の仕事をしているが、この仕事を通じて地球環境保全の大切さ、難しさを常に感じている。学生時代は地質学をやり、会社に就職してからは化学をやってきた。環境保全と人間の経済活動とは本質的に相反する側面をもちながら、「持続可能な経済社会の構築」などと言い、何とか妥協点を見つけようと模索している。しかし、現今の加速的な温暖化・環境悪化の状況をみると、何としてもこの妥協点を見つけていかなければならない。その妥協点は、経済活動にとってかなり厳しいものになるであろう。そうしないと経済活動の基盤そのものが崩壊してしまうからである。私は、企業に就職して間もない頃、調査団の一員としてボーキサイト調査に参加した。そのとき南太平洋で見た神々しいまでの日の出の景観が、退職し30数年経た現在でも脳裏から離れない。何としても地球環境をこれ以上悪化させてはならない。

調査団員、右から2人目が筆者

調査団員、右から2人目が筆者

 オイルショック以前の1970年当時、わが国のアルミニウム精錬業界は、精錬5社と称し軽金属精錬会という同業団体を結成していたが、国内のアルミニウム地金需要の逼迫を予想し、ボーキサイト資源の確保を意図して新たにアルミニウム資源開発株式会社(通称ALDECO)を設立した。その最初の仕事が「オーストラリア・ソロモンボーキサイト調査」であった。調査団は、精錬5社(日本軽金属(団長:鶴岡競氏)、昭和電工(青木正氏)、住友化学(丹生)、三菱化成(高橋秀氏)、三井アルミナ(倉成喬氏):いづれも当時の社名)から各1名と精錬会/ALDECO(藤本利定氏)から1名の合計6名で結成された。地質構造調査、埋蔵量・品位調査、鉱石の採掘・処理・加工技術、その他インフラ関係調査、投資環境調査、資料・試料収集等を6名で分担した。主力商社として安宅産業(当時)がついた。

 調査先は、オーストラリア北東部に位置するヨーク半島のオールクン(Aurukun)地区と南太平洋ソロモン諸島(当時BSIP)のレンネル(Rennell)島、ワジナ(Wagina)島であった。

 調査期間は、1971年(S46)10月25日から11月11日までの18日間と決定した。調査ルートは、シドニー/メルボルンを経て第一の訪問地であるオールクン地区を訪問し、ケアンズから北上してポート・モレスビーに入り、そこからキエタ(ブーゲンビル島)、ホニアラ(ガダルカナル島)を経由し、第二の訪問地であるレンネル島、さらにムンダ(ニュージョージア島)からワジナ島を訪問し、再びキエタ、ポート・モレスビー経由で帰国する行程であった。

 調査といっても、全くの未開の地へ乗り込んで一から探査を始めたわけではない。オールクン地区は、当時既にコマルコ(COMALCO)社がボーキサイトの商業採掘(コマルコ鉱で知られる)を行っていたウエイパ(Weipa)地区の南約50kmにあり、ウエイパ地区同様、膨大なボーキサイト埋蔵量が予想された。この鉱区は、当時ティペラリー社(Tipperary Land and Exploration Corp.)が鉱区権をもち埋蔵量調査に着手していた。また、レンネル島は、当時三井金属鉱山が先行して探査を実施していた。また、ワジナ島は、当時C.R.A(Conzinc Riotinto of Australia Ltd.)社が鉱区権を確保し探査中であった。

 第一の訪問地、オールクンにはケアンズから定期便でウエイパへ入り、ここからオールクンまではティペラリー社の双発の小型専用機で入った。前夜、ティペラリー社から歓待を受け、翌日の専用機のパイロットも一緒になって夜遅くまで飲んだ。パイロットはハタチ前後の若者でグデングデンに酔払って寝込んでしまった。早朝、団員の荷物を翼内に格納したパイロットの足元は、まだ昨日のアルコールが残っているように思えた。私を含め団員全員が恐怖に襲われていたにちがいない。今だったら絶対許されないことである。それでも無事離陸してホッとした。気流は極めて安定していて、空中に静止しているような錯覚にとらわれる。下界を見るとユーカリの疎林が延々と続き、大地はあくまでフラットである。これならどこでも不時着できそうだなと思いながらウトウトとしてしまった。

 ヨーク半島は、広大な背斜構造の北端に位置し、中生代及びそれ以降の地層(Carpentaria Basin, Laura Basin)が緩やかなアーチ状をなし背斜軸部分の花崗岩、変成岩をとりまいている。この花崗岩、変成岩は、幅60kmのベルト状をなし、背斜軸より西側は大部分が白亜紀層であり、ウエイパ、オールクン付近の海岸地帯には第三紀層が分布し、ボーキサイトはこの第三紀層の風化に起因するものと考えられた。ウエイパからオールクン地区にかけての岩石は、北から、アルコース砂岩、石英質砂岩、上部白亜紀層(青黒色泥岩)の順に地層があるため、南部に進むにしたがいシリカ(粘土分)が高くなる傾向がある。稼行が進んでいる北部に位置するウエイパ(コマルコ鉱)の方が高品位である所以である。

 現在、アルミナ製造に最も効率的とされるアルミナ分抽出法は、バイヤー法と称される方法であり、オートクレーブ中で苛性ソーダ液にギブサイト(Al(OH)3)を溶出させ他の成分と分離する方法であるが、カオリン等の粘土分も苛性ソーダ中に溶解するため、カオリンの多い鉱石は敬遠される(同じシリカ分でも石英等は不溶性である)。アルミナ製品原単位、苛性ソーダの原単位ともに悪くなり、コスト高となり廃棄物量が増えるからである。住友化学は、省エネルギー及び苛性ソーダ原単位の改善のために、ギブサイトとカオリンの溶解速度差を利用して短時間で抽出を終え、オートクレーブの高温・高圧下で固液分離を行う技術を開発したが、この方法は、将来、カオリン等の反応性シリカ分の多い所謂低品位ボーキサイト鉱石処理に有効であろうと思う。

 オールクン地区では、ランドローバーで露頭やトレンチを観察しサンプルを採取した。標準的な鉱床の断面は、数10cmの表土があり、その下部に平均8m程度のボーキサイト層がある。その底部にはアイアンストーンと呼ばれる団塊状鉄質ラテライト層があり暫時粘土層に移行する。ヨーク半島のボーキサイトの外観上の特徴は、ウエイパも含めてピソライト(pisolite)と称する豆石状で産出することである。豆石の断面は、石英微粒等の核を中心にマーブル様に同心円を描いて形成されている。他のボーキサイト鉱床と違い二次的な成因が考えられている。当時、鉱石の埋蔵量は、確定鉱量:約2億トン、推定鉱量:約8~10億トンと算出していた。ボーキサイト鉱石の品位は、アルミナ分は50%程度で問題ないが、反応性シリカ(カオリン等の粘土分からのシリカ)が5~7%程度と多いのが特徴であり、埋蔵量は膨大であるが通常のバイヤー法では使い勝手の悪い鉱石と推定された。

 ティペラリー社のキャンプには、オーストラリア人のスタッフ15名、アボリジン人労働者27名ほどが働いていた。キャンプサイトには、10棟ほどのトレーラーハウス風の居住設備、事務所、食堂、発電機室、クラッシャー・グラインダー等のサンプリング設備、工作室、ベネフィシエーションのための簡易設備、重機類はダンプトラック、ブルドーザー、グレーダー、ローバー等などがあり、F/Sがかなり進んでいた。当時同社は、現地又はケアンズに年産100万トンのアルミナプラント計画(建設費は当時で約2.2億A$)を持っており、このコンソーシアムで40%の持分のうち25%を日本へ譲渡したいとして日本の参画を要請していた。

 第二の訪問地レンネル島とワジナ島へは、ケアンズからパプア・ニューギニアの首都ポート・モレスビー、キエタ経由ガダルカナル島のホニアラから入った。当時、BSIP(British Solomon Island Protectorate)政庁は、ガダルカナル島のホニアラにあった。ホニアラでは、ソロモン政庁に表敬訪問し財務次官に面会した。次官から日本人の勤勉さに敬意をはらうとともに日本企業のソロモン進出を歓迎するとのコメントがあった。

 ガ島は、いうまでもなく太平洋戦争の激戦地である。ホニアラの滑走路は、旧日本軍の滑走路を一部利用していると聞いた。空港の直ぐ近くの小高い丘に、旧日本軍が残した塹壕のあとが点々と見られた。やや内陸部のスワンプには日本軍の飛行機の残骸が半ば埋もれていた。年配の団員が山本五十六秘話を語って聞かせてくれた。アイアンボトムと称される海岸を歩いた。所々に錆びた鉄屑の山がある。沖合いに赤錆びたマストが海面から突出ているのが見えた。この海岸に沈んだ艦船で磁石の方位が狂うほど今なお沈んでいるという。珊瑚礁の海岸は、ヤシの木がしげり白い珊瑚の砂に波紋の影が美しかった。こんな平和で美しい海岸で、血で血をあらう激戦がほんとにあったのだろうか。遺骨収集の訪問団が最近に建てたと思われる木の慰霊碑が建てられていた。その脇に銃弾を受け孔の空いた鉄兜・飯盒・水筒や飴のように曲がった飛行機のプロペラが添えられていた。プロペラの名盤は住友アルミニウム製造の文字を微かに読み取ることができた。日本を果てしなく離れたこの地で、補給路を絶たれ食べ物もなく、帰還できる望みもなく家族のことを思いながら死んでいった幾万の人たちのことを思うと、ただ立ちつくすしかなかった。人間は、神々しいほど素晴らしいことをやる反面、なんとも醜く愚かなことをやる二面性を持っている。戦争は愚かな一面の最たるものである。

旧日本軍一式陸攻のプロペラ、ホニアラ空港

旧日本軍一式陸攻のプロペラ、ホニアラ空港

ガ島の慰霊碑

ガ島の慰霊碑

 レンネル島には、ホニアラから南約160kmの距離に位置し、ホニアラからチャーター機で飛んだ。ノーマン・アイランダースと名前はいいが、見るからに何とも頼りなさそうな飛行機であった。ホニアラは島の北側にあり南のレンネル島へはガ島の山脈を越えないと行けない。ガ島の尾根は結構高かった。離陸して直ぐに2000m級の山脈を飛び越えなければならない。山脈が近づいてくるが一向に高度があがらない。気流も悪い。このままでは山に激突するぞと思った瞬間、尾根すれすれを飛び越えた。もっと保険をかけてくればよかったと思った。
レンネル島では、三井金属鉱山のエアーストリップに着陸し、三井金属鉱山現地スタッフの歓迎を受けた。飛行機を取巻いた現住民はポリネシア人でミクロネシア人の多いソロモンでは珍しいといわれる。島の食料は、コプラ椰子、タロ芋、サツマイモ、魚介類等である。時に野生のパパイヤ(現地ではポポと呼んでいる)が実をつけていることもある。島は隆起珊瑚礁で出来ており、玄武岩質の岩盤の上に200~数100mの珊瑚石灰岩が覆っている。ボーキサイトはこの石灰岩上にポケット状残留鉱床として存在する。島全体はジャングルで覆われており、15cm程度の表土の下に平均2~4m程度の鉱石層がある。鉱石は土状であり、後述のワジナ島のものとよく似ている。両島のボーキサイトの特徴は、アルミナ分はやや少ないもののシリカ分(粘土、石英とも)少ないことはメリットである。

ノーマン・アイランダースとレンネル島住民

ノーマン・アイランダースとレンネル島住民

 当時、三井金属鉱山はボーキサイト採掘:年産120万トン、アルミナ製造:年産50万トンの計画を立てていた。ソロモン政庁は、ワジナ島ボーキサイト(C.R.A社)との連携を重要視し、現地又はケアンズ等にアルミナ工場を建設することを視野に入れて両島のプロジェクトへの日本の参画を期待していた。

 ワジナ島には、当時まだ飛行場がなく海路が唯一のアクセスであった。レンネル島から帰った一行は、ムンダの船着場からC.R.A社の30トン程度の小さいエンジン船で、早朝まだ暗闇の中をワジナ島に向けて出発した。外海は昼間は波が荒く夜間の航行が適している。ワジナ島はムンダから北北東に約130kmにある。ニュー・ジョージア島の辺りは珊瑚礁の岩礁が多く、船首に見張りを立てサーチライトで海面を照らしながら、低速で慎重に進んだ。見張りが大声で岩礁の在り処を船長に知らせる。そのたびに船は急制動をかけた。船べりから波間を覗き込むと岩礁が巨大な黒い怪物のように迫ってきてぞっとする。外海に出ると、夜間とはいえさすがに波が高く船は翻弄された。8時間後にワジナ島についたが、その間に日の出を見ることができた。まさにソロモン海の夜明けである。漆黒の雲が次第に黄金色から茜色に染まってやがて神々しい太陽が水平線から顔を覗かせた。雲が燃えている。亜熱帯の海で思いがけず眼にしたスペクタクルに感動した。人間が自然を美しいと感じるのは何故であろうか。自然に対する古代人の畏敬の念のデフォルメされた感情を遺伝子の中に受継いでいるのであろうか。このような自然をもつ地球を素晴らしいと思った。

ソロモン海の夜明け

ソロモン海の夜明け

 ワジナ島も珊瑚礁がいたるところに発達しているため船着場がなく、チャーター船はワジナ島の沖に停泊しボートで上陸した。島の面積は、78平方km程度でレンネル島より更に小さい。島全体は、亜熱帯性ジャングルに覆われている。C.R.A社のキャンプは、島の南側の石灰岩台地の上にあった。当時、居住施設、食堂、会議室、事務所、発電機、通信所、サンプル倉庫、ボーキサイト処理設備、天水タンク等、簡易的であるが一応揃っていた。オーストラリア人中心のC.R.A社スタッフが10数名と現地人労働者が約200名程がいた。我々一行は、ニッパ椰子の葉で編んだゲストハウスで寝泊りした。ニッパ椰子住居は涼しく住心地は最高であった。ただ、夜間はベッドにマラリヤ予防に蚊やりのための蚊帳を吊った。夜、蚊帳をでると、星々のきらめく漆黒の闇と波の音以外、何もない世界であった。夜、ヤシガニを探しに懐中電灯をもって出かけ、文字通り椰子の幹を登りかけているのを捕まえたこともある。

レンネル島の住民と

レンネル島の住民と

 ワジナ島もレンネル島同様、隆起石灰岩からできており第三紀鮮新世以降に形成されたといわれている。ワギナ島のボーキサイトの母岩となった岩石は、石灰岩そのものという説もあるが、一般には第四紀以降に起こった火山活動による火山噴出物(火山灰、安山岩質凝灰岩)と考えられる。これらが石灰岩でできたラグーン等に堆積し、その後の地殻変動(地盤の隆起)や熱帯性の風化作用によりラテライト化が進んだと考えられている。したがって、ボーキサイト鉱床は、カルストが分布する島の北部に多い。レンレル島やジャマイカの鉱床にもよく似たポケット型風化残留鉱床である。これは、成因の類似性によるものと思われる。柱状図を言葉で示すと、30~60cm程の表土の下に、平均3m程度のボーキサイト層があり、下部の石灰岩に移行する。鉱石層は、黄褐色から赤褐色で土状を呈している。鉱石サンプルは、3鉱床あわせて50kg程度持ち帰り分析を分担したが、アルミナ分はレンネル島よりもやや低く、シリカ分は同程度で少なかった。その他、レンネル及びワジナ鉱床の特徴は、アルミナ分がほぼギプサイト態であり、酸化鉄はゲーサイト態である。また、グアノによると思われる少量の燐酸アルミニウム(クランダライト)の存在が認められた。

ジャングルの桟橋

ジャングルの桟橋

 C.R.A社も当時、島内に港湾設備、飛行場、タウンサイトをつくり年産150万トンのボーキサイト生産計画を立てていた。また、アルミナ工場建設についても模索していた。

 3鉱床の埋蔵量と品位の概要は次のようであった。

鉱床 オールクン鉱床 レンネル鉱床 ワジナ鉱床
埋蔵量 2~10億トン 3,000万トン 2,800万トン
Al2O3 53.5 51.4 49.4
T-SiO2 8.5 0.2 1.8
R-SiO2 5.8 0.1 1.6
Fe2O3 9.5 13.3 15.7
TiO2 2.5 1.4 1.7

(T-SiO2:石英等も含めた全シリカ、R-SiO2:カオリン粘土等の溶解性シルカ)

 思い出すままにウダウダと書いてきたが…、アレから30数年が経った。その間に2度にわたるオイルショックの洗礼を受け、わが国のアルミニウム工業も大きな痛手を受けた。国内でのアルミニウム精錬業の衰退とともに、アルミナ製造も縮小されボーキサイト開発の掛け声も次第に消滅した。しかし、このところまた開発の話がちらほら聞こえるようになった。当時に比べると、世界のボーキサイト鉱山の鉱石品位は、総じて明らかに低下傾向にある。ボーキサイト鉱床は、その成因からして地表面又はその近傍にしか存在しえない。したがって石油のように、掘削・探査によって新たな油田が発見されるような可能性は少ない。今後は、現在の精製方法(アルミナの場合)では効率が悪いとされる鉱石でも効率的に使いこなす改良技術の開発乃至は新精製法の発明が不可欠である。省資源・省エネの観点からすれば、アルミナ精製によってつくられる副生成物・廃棄物(赤泥等)を有効的に利用する技術開発も是非とも必要である。というより、生産効率は原料(鉱石)から生産される製造品全てのトータルで考えるべきであり、利用しづらい副生成物や廃棄物を如何に出さないように、トータルで利用できる技術の開発乃至は製造法の開発が必要である。この考え方は、目的とする製品のみを効率的に精製するこれまでの技術とは、発想を変えなければ実現できない。

 あの時と同じように、ソロモン海の夜明けのドラマは繰り返されているであろう。環境汚染によって目に見えない変化が起こっているのであろうか。是非、もう一度訪問してこの目で確かめたい思いに駆られている。

(愛媛県技術士会会報Vol.15(2007)掲載)