坂本先生の思い出

(オーストラリア大陸のボーキサイト調査)

 私は、1970年4月に住友化学工業株式会社(現在の住友化学株式会社、以下、住友化学と記す)に入社した。入社して新入社員教育を受け、1ヵ月経つか経たないうちにオーストラリアへの出張を命じられた。当時、住友商事の技術顧問をしておられた東大名誉教授坂本峻雄先生のいわば鞄持ちとして、それまで先生が研究してこられたオーストラリア大陸の地質とボーキサイト鉱床の産状を集大成される調査旅行に同行して、ご教示を受け体得して、その後の資源確保の業務に役立てるようにというものであった。当時の住友化学は、海外の原料資源については商社を通じて輸入することが多く、アルミニウムの原料鉱石であるボーキサイトの確保についても住友商事等に委託することが多かった。

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坂本先生と筆者

 私は大学で地質学を一応習得し、入社後はボーキサイトに関する業務に就くべく採用されたことは承知していたが、当時、ボーキサイトがどんなものか殆ど知らなかった。出発前に、急いでアルミニウム製造の前段工程であるバイヤープラント(アルミナ製造プラント)を見学し、坂本先生の論文を読み、応急的な知識をつけて5月下旬、坂本先生及び住友商事のスタッフとともにオーストラリアへ向けて出発した。

 出発前、住友商事本社の坂本先生をお尋ねしたが、真っ赤な絨毯張りの役員室に、予想に反して小柄で、どちらかというと地味な先生であったのが印象的である。小声でぼそぼそと話された。私は一言も聞き逃すまいと耳をそばだてた。後に、その観察力の鋭さと学問に対する情熱に敬服したものである。

 私にとって、これが初めての海外であった。当時、羽田からオーストラリアへの直行便はなく香港経由であった。夜のダーウイン経由シドニー行きの便まで、香港の中華街をぶらつく時間があった。それが異国に初めて接した瞬間であった。

 坂本先生とはファーストクラスで同席できず、住商のスタッフW氏と私は窮屈なエコノミーでしのいだ。夜間のフライトは、何となく不安になる。高度がどんどん下がって今にも地面と衝突するのではないかととりとめもないことを考える。オーストラリア大陸の上にでると、あちこちに野火のような山火事(自然火災)が見られる。湖面上では月影が銀色に反射してどこまでも追ってくる。そのうち、南下している飛行機の東の窓がうっすらと明るくなり、やがて雲海が朝日で茜色に染まる。上空からの朝焼けは実に美しい。いつも経験できるパイロットをうらやましく思う。

 ダーウインに真夜中に着いたにもかかわらず、オーストラリア人ジオロジストのM氏に迎えられた。最初のボーキサイト鉱床の調査地であるキンバレー鉱床調査(鉱床・産状調査とプラント建設予定地の視察)のためである。当時、キンバレー鉱床の鉱区権は、Amax Bauxite Corp.が所有し、アルミナ製造計画を持っていた。鉱床は、なだらかなミッチェルプラトー(台地)に広がっている。ダーウインから小型機で2時間程度でキンバレー鉱床近くのエアーストリップについた。鉱床サイトのキャンプ地には、20人程度が寝泊りできる個人用テントと食堂と簡易トイレ等が固まっていた。周囲はユーカリの疎林が果てしなく続き、時にカンガルーやエミューがやってくる。ランドローバーでブッシュをなぎ倒しながら、あちこちに試掘されたトレンチ(切通し)を観察した。ランドローバーが使えない場所へは、ヘリコプターで飛んだ。あるときは、海岸の断崖絶壁に着陸しはらはらしたり、あるときは、もはや帰還危うしと思ったこともある。キンバレーボーキサイトの母岩は主として玄武岩(basalt)であり玄武岩のラテライト化により生成されたものである。

 先生は、ボーキサイト露頭の観察の仕方、成因等について親切に教えてくださった。先生のトレンチでの露頭の観察は精緻を極めた。私などは数分で終わるところを、うんざりするくらい時間をかけて極めて熱心にスケッチブックに書き込まれた。柱状図は芸術品と思われるほど丹念に作成された。サンプルは柱状図にしたがって採取し分析のため日本に持ち帰った。推定埋蔵量は6億トンと見積もられておりオーストラリアの鉱床として大規模な鉱床であるが、アルミナ品位は低い(Al2O3で35~45%程度)。しかし、この鉱床の特徴は、鉄質であるがシリカ特にクレー分が少ないため、バイヤープラントで使用した場合、ソーダ原単位は悪くない。

鉱床調査でのひととき

鉱床調査でのひととき

 坂本先生は、他人に対する思いやり、ことのほかマナーには厳格であった。私は、旅行中、先生から地質学上の多くのことを教えていただいたが、それ以上に社交上の教育を受けた。夕食後、毎晩のように坂本先生のテントで現地のジオロジストとともにキンバレーの地質について議論したが、他人の考えに極めて熱心に耳を傾けられた。あるとき、鉱床調査から帰って使用後の洗面台を洗わずにボーキサイトの赤い泥をつけたままにしたことで大変きつくしかられたし、飛行機に乗り込むときにプロペラの間を通ったとしかられた。エレベータに乗るときは、女性を先に、降りるときは自分が先にと・・・。また、テーブルマナーについても教育を受けた。私は、当時どうしようもない山出しだと思われたにちがいないし、実際そうであった。

 キンバレー鉱床の後、シドニー大学の地球物理学教室を訪ね、カーペンタリア湾からヨーク半島につづく海底のボーキサイト鉱床についてP教授の研究成果を聴き、大学図書館で地質図等の資料を収集した。

 その後、メルボルン、アデレードを経て西豪州のパースの南に広がるダーリングレインジ鉱床、再びダーウインからコマルコが鉱区を持ち当時稼行中であったウェイパ鉱床と当時Nabalco Gove Projectとしてが開発計画中であったゴーブ鉱床、その他、クイーンスランド州やニューサウスウエールズ州の牧場に広がる小規模な鉱床の露頭を観察し、オーストラリア大陸を一回半して6月末帰国した。

 アルミナ工場のある新居浜で、持ち帰ったサンプルの分析をし、その結果を携えて東京におられた坂本先生にお礼を兼ねて訪問した。その後も何度か海外へボーキサイト鉱床の探査に出かける機会があったが、2回にわたるオイルショックによる電力コストの高騰により、国内でのアルミニウム製造事業は縮小され、やがて海外にその生産拠点を移すことになった。当然、私の仕事も地質屋から化学屋的な仕事へ転向を余儀なくされた。この間、先生のお目にかかる機会はついになかった。先生が亡くなられたことを知ったのは、かなり後になってからである。

 坂本峻夫先生のご冥福を心からお祈りしたい。

 余談ではあるが歴史的にみると、アルミニウム製造業は、製鉄やアルミ以外の非鉄金属(銅、鉛、亜鉛等)精錬をそれぞれ製鉄会社、非鉄鉱山等の専業会社が手がけたのに対して、化学会社が手がけた経緯がある。それは、アルミニウム製造工程の前半部分であるアルミナ製造プラント(バイヤープラント)が化学プラントであり、後半部分のアルミ精錬が電気化学を主体とした化学であることが大きな理由と思われる。従って、化学工業において発展したアルミニウム製造は、物理屋よりは化学屋の手で行われた。鉱石資源についての関心は、製鉄メーカーの鉄鉱石や非鉄鉱山会社の非鉄金属鉱石に対する関心ほど高くはなかったと思われる。化学工業では、資源も一原料と考え、化学工業用原料は商社から買うものという意識が強かったのである。化学屋は化学工業で用いる原材料を資源として捉えることに疎かったと思われる。

 当時、日本の化学工業は、すでにアウトソーシングを実行していた。やや言い過ぎかもしれないが、資金は銀行、資源は商社(当時、地質屋は総合商社に多かった。)、そして技術は外国からの技術導入であった。現在のアウトソーシングとは、かなり発想や内容が違うが、アウトソーシングのハシリには違いない。(日本の化学工業はなぜ世界に遅れをとったのかについて、伊丹敬之氏の著書「なぜ世界に立ち遅れたのかー日本の化学工業」(NTT出版)のなかで、この辺の事情が解説されている。)その結果、資源産出国の意志が強く反映され、やがてIRAでのボーキサイト価格やOPECでの原油価格の高騰を招く遠因となった。

 しかし、化学会社である住友化学において、当時の経営層が地質屋の採用を決断されたことは画期的なことであった。私は採用してもらった感謝の意味でも、その思想を大事にしたいと思った。在籍中に、地球科学全般や環境問題に理解をもつ、バランスのとれた鉱石資源のスペシャリストを育てたかったのである。しかし、残念ながらその計画は果たせたかどうかは疑問である。オイルショックでアルミ事業が国内から撤退したこともあるが、化学工業において原材料を資源として捕らえる思想は根付かなかった。地質屋は後にも先にも私一人であった。

 しかし、坂本先生に始終同行させていただいた2ヵ月たらずの経験は、その後の私の人生の大きな財産となり、現在でも考え方のよりどころとなっている。私が将来、痴呆症になって、つい今しがたのことを忘れてしまうようになったとしても、一番最後まで記憶しているのは、当時の思い出の記憶ではないかと思っている。

(愛媛県技術士会会報Vol.14(2006)投稿)