神と科学は共存できるか?

書評 神と科学は共存できるか?(Rocks of Ages)
スティーヴン・ジェイ・グールド著 狩野秀之他訳 日経BP社発行 \1900+税

 日ごろ漠然と抱いていた疑問をそのままタイトルにした著書を店頭で見つけて、内容も十分確かめずに買ってしまった。本書は著書「Rocks of Ages」の訳本である。著者グールド(1941~2002)は、ニューヨークのユダヤ人家庭に育ち、古生物学者であり思想家でもあった。一貫してアメリカのキリスト教原理主義と創造主義を批判し、しかし一方では社会生物学や進化心理学にも批判的であった著者が、「科学と宗教との関係」について書き下ろしている。著者は、本書の中で言っているように、特に信仰をもたずキリスト教信者でもユダヤ教信者でもない。訳書独特の理解しづらい言いまわしにはかまわず読み進めるとよいが、やや難解で途中からこの書評のために読了した感は否めない。

 第1章「お定まりの問題」では、「ヨハネによる福音書」第20章で、「あの方の手平と脇腹の傷に自分の手を入れてみない限り復活を信じない。」と言った所謂”疑うトマス”に対して、キリストは、「私のわき腹に手を入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」としてトマスを開眼させた逸話をあげ、信仰と科学の根本的な違いを説明している。また、同じ名前のトマス・バーネット(17~18世紀)は、ニュートン、ハレー等と同時代の人物であるが、彼は地球の歴史について聖書の記述を科学的に忠実に説明しようとして失敗した。2人のトマスは、科学と宗教(タイトルのRocksとは、「科学」と「宗教」のこと)の区別を混同した結果だと説明している。

 また、復活論者や原理主義者に対抗した進化生物学者であるチャールス・ダーウィンとトマス・ヘンリー・ハクスリーは、2人とも愛する幼いわが子を亡くしたが、その後2人の科学と宗教との相違の理解についての生き方の違いを取り上げている。即ち、ダーウィンは、ただ進化論を発展させるために、ハクスリーは聖職者批判のために・・。

 神は聖書と自然界との矛盾を起こすようには創られていない。自然は、科学的な説明になじむ不変の法則によって進行する。自然界は決して聖書とは矛盾しない。もしも、確証された科学的な結論と聖書の慣例的な解釈との間に矛盾が生じたようにみえた場合は、聖書の解釈を再考するべきだと述べている。なぜなら、自然界は嘘をつくことはないが、言葉は寓意や比喩などいくつもの意味をもつ場合があるからであると。

 第2章「原則的に解決済みの問題」では、NOMA原理を科学と宗教という両方の文化領域においてそれぞれ展開され支持されたものとして例証している。ガリレオと教皇ウルバヌス八世との対立は、屈辱を味合わされたガリレオを英雄視する見方が多いが、必ずしもそうではなくガリレオがマジステリウムを逸脱してたこと、教皇ピウス十二世や後の教皇ヨハネ・パウロ二世がダーウインの進化の研究を支持しNOMA(後述)を条件付で擁護したことやニュートンの諸法則についても言及している。

 第3章「対立の歴史的理由」では、本来存在するはずのない科学と宗教の対立が、実際には存在した歴史的な理由を概観している。即ち、アメリカでは歴史的に創造主義を盾に原理主義を教育現場にまで浸透させようとするアメリカ独特のNOMA違反があった。また一方では、まちがったダーウイニズムの解釈と科学者側にもNOMA違反があったことを戒めている。

 第4章(終章)「対立の心理的な理由」では、この偽りの対立の心理的な理由を要約し、締めくくりとして最善の相互関係への道を示唆する。

 著者は、宗教が科学の領域に介入することを厳しく弾劾する一方で、科学が宗教の領域に不用意に介入することにも批判的である。”科学は天がどのように運行しているかを研究し、宗教はどのようにして天に行けるかを研究する”といっているように、科学というマジステリウム(ある一つの教え方が、有意義な対話と解決の適切な道具となる領域)と宗教というマジステリウムとの間の、互いの敬意と、愛にさえ基づく協約(NOMAの概念)を信じると言っている。したがって、両者は、互いに不可侵(敬意をもった非干渉)であり、両立するというのが結論であろう。

 非常に緻密な考察の上に構築された論文・著述であるが、キリスト教にあまり理解の無いわれわれにとっては難解の部分がある。チョッと期待はずれの感はあるが、結論的には無難で常識的な線に落ち着いている。

(大阪技術振興協会会報No. (  )掲載)