ほんとうに「あの世」はあるのか

ほんとうに「あの世」はあるのか
化学、総合技術監理部門 丹生 光雄

 いきなり場違いなタイトルで恐縮である。
 実は、平成27年の当協会創立50周年記念式典で総本山知恩院ご門跡伊藤大僧正にご講演を頂いた時、本誌にその感想文を書かせて頂いたことがあった(協会誌H27年10月号)。その記念特集号(同4月号)に伊藤ご門跡からご投稿頂いた「科学・技術と宗教」中で引用された、岸根卓郎氏の著書「量子論から解き明かす『心の世界』と『あの世』」を当時手に入れたものの暫らく温めていたが、最近読んでみて、「なるほど、「あの世」はあるのかな」と思うようになった。(以下は、書評というより私の勝手な随想である。)
 本著は、「人は何のために生まれ、何のために死ぬのか」、「人は何処より来たりて、何処へ去るのか」、更には、「自分が今ここにいるのは何故か」、「自分とは何か」…などの問いに量子論の立場から科学的に解き明かそうとしている。
 従来の自然科学は、「観察者は観察対象である自然に影響を与えないように、観察者と対象である自然は厳格に峻別し、自然をあるがままに観察しなければならない」というのが大前提であった。しかし、その後の量子論(注1)によれば、自然をあるがままに観察することは不可能であり、観察者の関与が不可避であるとする。観察は通常は有限の速度をもつ光で行うし、電子の波は、観察すると発見確率から一瞬にして「波束の収縮」が起こり一個の電子となるからであるという。量子論は、従来の西洋の科学観(西洋物質文明、物心二元論)ではなく、東洋神秘思想(東洋精神文明、物心一元論)に近い思想である。
 これをマクロに敷衍すると、宇宙の万物や事象は全て潜在的に存在しているが、人間がそれを観察しないうちは実在ではなく、観察したとたんに実在になる。
「月は人間(その心)が見たとき初めて存在する。人間(その心)が見ていない月は決して存在しない。」も、法然上人の「月かげの いたらぬ里は なけれども 眺むる人の 心にぞ住む」は、どちらも量子論を端的に比喩した言葉である。
ここまでは、私にも判り易いが、ここから先はなかなか難解である。
『見える3次元世界の「この世」が実は虚像(影)であり、見えない4次元の世界「あの世」が実像(本物)である。』というのである(4次元の「あの世」の3次元的投影が「この世」)。しかも、「この世」(見えるマクロの世界)と「あの世」(見えないミクロの世界)は相依かつ相補関係にあるが、同時に見る(体験する)ことはできない。マクロの世界に住む私たちは、実像の「この世」に生きているかのように想っているが、本当は虚像の世界に生きているにすぎない。
シュレディンガーが導き出した波動方程式には、実数(表の世界=この世)と虚数(うらの世界=あの世)が含まれ複素数の世界になっており、あの世とこの世の重ね合わせの世界を表しているが、人間には生の世界しか体験できない。「シュレディンガーの猫」のパラドックスによる量子論への反論はあやまりであり、「あの世」は量子論的には必ず存在する、というのである。
 これまで、この世が現実世界(実像)と思ってきたもの(私)にとって、にわかには信じがたい。しかし、目を閉じれば、その間は実世界は無いのと同様である。目を瞑っていても周囲に実世界があると思うのは錯覚かもしれないからだ。
 この本を読んでみて、量子論的な見方をすれば「あの世」はあるのかもしれないと思うようになった。しかしまだ、釈然としない疑問が湧いてくる。
 もし、「あの世」があるとしても、「この世」の経験や記憶をもった自我がそのまま「あの世」でも引き継がれるだろうか。これについて、この著書から解はえられなかったが、私はそれは無いであろうと思う。「あの世」では、別の人格になるのではないか。そこに記憶の連続性はないのではないか。「この世」で肉体が滅びた段階で神経系(脳)は消滅し自我も消滅すると考えるのが自然である。自我が無くなるのであるから、「無」であり、もっと言えば「無」ともいえない「意識も何もない世界」である。このような世界を想像することは難しいが、自分が生まれる前の世界、又は夢をみていない睡眠中の世界に近いのではないだろうか。
将来、量子論と宗教との連携により、「あの世」の解明が更に進むことを期待する。見えない宇宙と見えない「あの世」の宗教世界が解明されることを望みたい。
 私は、宗教(仏教など)を人生哲学的に信じているが、もともと「霊魂」や“自我の意識のある”「死後の世界」や「超常現象」などの存在を信じない主義であった。しかし、これからは判らない。その証拠に、「幽霊」は恐ろしいし夜の暗闇も怖いのである。

注1:量子論を構成する「基礎理論」は、「波動性の理論」、「粒子性の理論」。「状態の共存性の理論」、「波束の収縮性の理論」及び「不確定性理論」である。